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「行くところがない」は呪文か?旧耐震アパートの立ち退き拒否、泥沼化する前に大家が知るべき最後の手段

築古アパートの片隅で、私は一人、深い溜息をついた。築50年を超える木造アパートは、旧耐震基準のまま。いつ来るか分からない大地震に怯え、入居者さんの安全と、何より私自身の心の平穏のために、取り壊して売却することを決意した。しかし、その決意は、たった一人の入居者によって、まるで分厚い鉛の壁のように行く手を阻まれた。

「行くところがないんです。ここにしか居場所がないんです…」

そう訴えるのは、数年前から家賃を滞納し続けている高齢の入居者だった。最初は「事情があるのだろう」と情けをかけた。コロナ禍もあり、優しい言葉をかけ、催促も控えめにした。だが、その「優しさ」はいつしか「甘さ」に変わり、問題は雪だるま式に膨らんでいった。家賃は滞納され続け、管理費や固定資産税だけが重くのしかかる。売却の話も進まず、毎月届く督促状を見るたびに、胸が締め付けられた。もう数えきれないほど話し合いを重ねたが、入居者の返答はいつも同じ。「行くところがない」。

「なぜ、私だけがこんな目に遭うのだろう?」

夜、一人で天井を見上げながら、何度も自問自答した。アパートは、かつて私にとって大切な資産であり、誇りだった。しかし今では、まるで呪われた負債のように感じられる。売却できなければ、老朽化は進み、いずれは大きな災害リスクとなる。強制退去を考えないわけではない。だが、その費用は?弁護士費用は?そして何より、長年住み続けた人を無理やり追い出すという行為が、私の心を深く抉った。「こんなことをして、本当に良いのだろうか…?」という葛藤が、私を無力感の淵に突き落とした。友人には「甘い」と一蹴され、家族には「早くどうにかして」と急かされる日々。板挟みになり、心はすっかり疲弊しきっていた。このままでは、アパートが私自身を飲み込んでしまうのではないかという恐怖が、常に付きまとっていた。

しかし、ある日、私は不動産トラブルに詳しい弁護士の存在を知った。藁にもすがる思いで相談した際、弁護士の口から出た言葉は、私の凝り固まった常識を覆した。「『行くところがない』は、入居者さんの切実な声であると同時に、交渉を有利に進めるための『呪文』になっている可能性があります。感情論だけでは、この問題は解決しません」。

その言葉は、私に冷水を浴びせると同時に、一筋の光明を与えてくれた。法律は、感情を排して客観的な事実に基づき、双方の権利と義務を定義する。滞納の事実、旧耐震アパートの危険性、そして立ち退き交渉の正当なプロセス。これらを明確にすることで、入居者も自身の状況を客観的に認識し、現実的な解決策へと目を向けやすくなるという。

弁護士は、まず家賃滞納の正確な記録と契約書の確認から始めた。次に、入居者への正式な内容証明郵便による通知。そして、立ち退き料の法的な相場や、入居者が利用できる公的な住居支援制度の調査を進めた。私が感情的になっていた部分を、弁護士は冷静なプロの視点で分析し、具体的なステップへと落とし込んでいった。それは、まるで絡み合った糸を、一本一本丁寧に解きほぐしていくような作業だった。

もちろん、交渉は一筋縄ではいかなかった。入居者は依然として抵抗を見せたが、弁護士が法的な根拠を示し、粘り強く交渉を続けることで、少しずつ状況は動き出した。最終的には、適切な立ち退き料と、入居者が新しい住居を見つけるためのサポートを提示することで、合意に至ることができた。その瞬間、私の肩から、何十年分もの重荷が下りたような気がした。アパートの売却も無事に完了し、私はようやく、未来へと目を向けることができるようになった。

この経験を通して、私は「問題から目を背けず、専門家の力を借りて、一歩踏み出す勇気」の重要性を痛感した。あなたの抱える「どうしようもない」という感情は、決して一人で抱え込むべきものではない。法律という盾と剣を手に、未来を取り戻すための第一歩を踏み出してほしい。諦めなければ、必ず道は開けるのだから。